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自分を大切にして、生きてみる

いまから、ここから、やってみる。日々の記録。

「受け取る能」がある、ってすごすぎる

こんにちは。

カオリです。

 

「心の中があったかい状態でいる」と決めたら、今まで当たり前と思っていたことや見下していたこと、勝手に劣等感を持っていたことが、実は、受け取っていることだった!ということが別なメガネに掛けかえたみたいに見えてきて、圧倒されてます。

 

例えば、ほんとに、気づいてみると恥ずかしすぎることなんですが、わたし保育園で事務をしているんですが、市から保育料が引き落とせなかった人に未納のお知らせが来るんですけど、それを配りながらいつも

「またこの人未納?!もうだらしないなあ」

と思っていたんです。

でもですね、昨日また配っていて、気づきました。

 

「ってか、そう言ってるオマエ、保育料払ってないだろ!」

 

わたし、母子家庭なので、保育料免除してもらってるんです。

で、その、「免除してもらっている」という事実を今のメガネかけて気づいた瞬間、保育園の広々とした建物とか保育士さんたちのお給料、この野菜たっぷりの手作りの給食、子どもたちが伸び伸びしている素晴らしい保育、保育してもらっている間の自分の時間、などなどなどなど、全部、わたしは、もちろん諸費として保育園に実費支払っているものはあるけれど、保育料をまったく負担せず受け取っているんだ。。。

 

ほかの方からしたら「今さらかよ!」と怒りを感じるかもしれませんが、もう、すごい衝撃でした。

 

なんて大きすぎるものを、ただいただいているんだ・・・!と。

 

もちろん、今までだって、保育料免除してもらってることわかっていたけど、いろんな方面でちゃんと明らめられてなかったから、むしろ劣等感とかそういうのでまみれちゃってて、感じられてなかったんだな。。。

 

 

それと、昨日は、午前中お休みをもらって、昨年度まで5年間スタッフをしてきた育児サークル的な集まりのイベントに行ってきたんですが、そこでも衝撃でした。

わたし、今年の2月くらいに、スタッフ内でのメールのやり取り見て、めっちゃくちゃに腹が立ったんですよね。

そのやり取りが、もう他人の機嫌伺いで自分たちがやっていることへの誇りが微塵もないものに思えて猛烈に腹が立ったんです。

もうこんなメンバーとやるの嫌だ、無理!と思って、でも結局、その時は保留にしたのだけど、その後諸状況やらスタッフを辞めることにして。

 

それで、昨日久しぶりにみんなと会って、話をしたら、なんかもう、みんなほんとにまっすぐにいい人ですごく優しいんです。

要は、もともとわたしがひねくれていて劣等感持ってて、そんで、真穂さんのコース受講してちょっと違う視点を持ったり変わった実感を持てたら、今度は優越感からの見下しで腹立ててたっていう、そこでどっちにせよ一人芝居のようにジタバタしていたという、情けなくあほらしく残念すぎるストーリーだったっていうことが、わかったのでした。

 

よーはわたし、こういうことを、あらゆるところで24時間、繰り返してきたのだ!

41歳まで!

 

 

そうして、同じようにあれもこれも、ともらっているものがドババババーっと視界に入ってきて、急に、一気にたくさんの持ちきれないくらいなものをもらって(受け取って)、感謝ばっかりだ・・・って気づく一方、今度は、「こんなに持てない!どうやって持ったらいいのかわからない!」って気持ちも出てきている昨日今日です。

 

受け取るだけ、ってことに慣れてない。

それで、その受け取る量、受け取ってる量が、あまりに大きすぎるから、今までの思考のように、「同じだけ返そう」とか「返せそうな分だけもらおう」とか(汗)「もらっていらんわ!」と拒否したって、どうやったって無理って思う。

どうやったって、いっぱい受け取ってしまっている。

 

それで思い出したのが、以前真穂さんが書かれていた記事「わたしは本当に、受け取ることくらいしか、能がない」。

「受け取るくらいしか能がない」って、「能が少ない」って言ってるみたいだけど、いや、「受け取るだけ」しかも、「たくさん受け取るだけ」って、その能、すごすぎる!!

 

今のわたしは、残念だけど、自分の受け取る能のなさ、受け取る器、キャパの少なさを目の当たりにしてガーン!ってなってます。。。

 

わたし、三女なのもあって、ちゃっかりしてたり要領がよかったり、人に何かをしてもらうことに慣れていると思ってると思っていたけど、「わたしは、してもらって当たり前」って思ってたから、それって、受け取っているのとは全然違ったんだな。。。

 

慣れてないのもあるし、以前のメガネの亡霊が「返さないとバチあたるよ」とかささやいてくるのもあるから、まずは、そこで湧いてくる気持ちをまた書き出しながら、進んでいってみようと思います。

真穂さんがおっしゃっているように、そう生きていれば、その存在自体が財産で、それが周りに勝手に生かされていく、ということを信じて、受け取るってことをどんどんしていってみます。

 

1か月続いた超モヤモヤから出ました

こんにちは。

カオリです。

 

3日ほど前に、うまく言えないのですが、自分の中で大きくなにかの角度というか深度が変わりました。

ステージアップ!とか一皮むけた、というのとちょっと違ってて、うーん、前の自分とねじれの位置になったというか記憶喪失になったみたいというか、でも、新生!とか勢いづくのともちょっと違う感じ。

 

この1か月、ものっすごいモヤモヤしていました。

モヤモヤで胸の中がいっぱいで、「これが原因なんだろうな」ってことは見当がついていたから、ノートに書いてみるんだけど、あまり進まなかったり、いったんは「これでいこう」という方向性を見出してもまたすぐにモヤってきて。

苦しかったです。

体もすごく重くてだるくて、強烈な眠気が急に襲ってきたり、やたら刺激の強いものを食べたり飲んだりしたくなったり、「大丈夫?!」って感じでした。

「ああ、これじゃあ進めない」って焦るんだけどだめで、部屋の片づけとか全然する気にならないから洗濯物の山も記録的に^^;

でも、とにかく一行でも気持ちを書くことは続けて、「どうしたらいいんだろう」っていつも問うていました。

 

そしたら、先週前半にモヤモヤが最高潮に高まったあと、パーンとはじけて、出てきました。

心の奥にあったものが。

 

わたしが「原因」って思っていたこと、ちょっとずれがあるふたつのことの間での葛藤みたいなものだったのですが、モヤモヤは、直接それが原因ではなくて、もっと奥にあったのでした。

そして、原因だと思っていた葛藤は、それ(奥にあったもの)を表面化させるための役者として現れてきたんだってことがわかった。

もっと言うなら、わたし自身が、その奥にあるものを表面化させたい、認めたい、って願ったから、その葛藤を生じさせたんだってわかった。

ってことは、その葛藤が生じたのは、ほかの人の書いたものを読んだことに始まるのだけれど、それって、わたしが引き寄せたんだな。

そう書くと偉そうというかなんというかなんだけど、完璧っていうことが、なんかちょっと体感できた気がする。

相互作用とはプラマイとか、そういうのじゃなくて、全部プラスになるようにつながってるんだなと。

 

って、ちょっと具体的にブログでは書きにくい内容なのでとってもわかりにくいですよね。

すみません^^;

 

 

で、心の奥から出てきたことについて。

 

モヤモヤ最高潮クライマックスの中で、真穂さんの音声(前回の、「足元」の回)もう一回聞きたくなって聞いて、さらにバックナンバーも聞いたりしてそのあとノートに気持ち書いていて、

 

「どうだったら幸せか?」

って自分に聞いて、そして出てきた言葉が、

 

「心の中があたたかい、って状態でいられたら」。

 

なんか、こう打ってしまうとこれっきりなんですが、「って状態」ってあたりまで書いたらもう、書き続けることができないくらい、心の中ででっかい崖崩れが起きたみたいにぐしゃぐしゃっと何かが崩れて、涙がどわーって出てきました。

 

寒い、心細い・・・って言葉も出てきた。

 

直後、

「心があたたかい状態」って、

え?!まさか、わたしの望みがこんなことだけなんて!

そんなつまらない、ちっぽけなことでいいの?

 

っていう、驚きと非難、「ひえーっ!あり得ない!」とか、「ブーブー!(ブーイング)」とか、もう心の中で大合唱がすごい。

 

わたし、自分はイケイケどんどんな(?)ほうというか、ダイナミックとかオリジナリティあるとか、センスが冴えてるとか、人と違った切り口とか、そういうのが自分らしさだと思っていたんです。

小学校のころから、大きくなってからなりたいもの「大物」とか「有名人」とか書いていたし。

 

なので、継続コース卒業するときでも、「一旗あげたい」っていうような気持ちはあったんですよね。

 

 

で、心の中でのブーイングや悲鳴は鳴り響いていて、もう未練がすごいんだけど、「ああ、これはもう、変わらないんだな」ってことが自分でわかった。

過去との決別って言葉が浮かんだ。

 

 

心ってすごいですね。

 

わたしが意識している部分での「原因」と思っていたところの底で、実は、この本音とブーイングがせめぎあっていたんだなあ。

 

長年組み伏せられてたのに、よくがんばって出てきてくれたな。

 

そりゃあ、体もだるくなるし、眠気も来るわ、って納得しました。

 

 

そして、決めました。

わたしは、「心があたたかい状態」を選択して生きると。

 

 

なんかわたし、あったかくなっちゃったら、つまんないとこに安住しちゃうと思ってたと思う。

常にハングリーな状態に自分をおいて、ガッツーンとやったりたい!みたいな。

「小さな幸せ♡」みたいなの、蹴散らしたかったんです。

レディースセットとか嫌いで、かつ丼大盛り!みたいな。

自分のこと間欠泉みたいだなって思っていて、ためてためて、大きく噴き出すぜ!みたいな。

安定、安心、そんなつまんないもんクソくらえ!オラオラー!ってな勢いです(汗)

 

 

継続コース受けて、いろいろ変化してはいたものの、その根っこは大きく変わってなかったんだと思う。

そういう自分が好きだったし。

(それで卒業したのか、おい、と突っ込みたくなりますが^^;)

 

実は、この「心があったかい状態」っていうのは、初めてその状態を見せてくれたのが、お腹の中にいるときの二人目の子なんです。

 

二人目の子がお腹にいるとき、わたしは、離婚のぐっちゃぐちゃで、ほんとにドロドロな状態でした。

「こんなドロドロな状態でお腹の赤ちゃん、、、どんな子になるんだろう。」

って思って、胎名を「蓮(はす)ちゃん」って名づけてました。

蓮の花は、泥の中に根っこを張って、あの目の覚めるような美しい花を咲かせるというから、ドロドロな自分だけど、赤ちゃんはそうあってほしいと思って。

 

で、ある日、夢を見ました。

とても変わった夢。

変わった、っていうのは、不思議とか奇怪とかそういうのじゃなくて、明らかに、いつも見る夢とはテイストが違ったんです。

感覚が全然違う。

内容としては、池みたいなところでボートが何艘か浮かんでいて、どのボートの人もわたしにおいでおいでと言ってくれて、なんていうかな、まったく警戒心とか不安とかがかけらもなくて、安心とうれしさしかなかった。

そして、すごく心があったかかったんです。

その、心のあったかい感じは、今までわたしが感じたことがない種類のもので。

 

だから、目覚めて、

「あ、これは蓮ちゃんが見てるんだ。(見せてくれたんだ)」

ってはっきりわかった。

 

あまりにも感じたことがない感覚だったから、3年以上経っているけど、いまもはっきりその感じを覚えてます。

「ああ、こんな感じってありうるんだなあ。こんな感覚で生きている人もいるのかな。」

って思った。

その時は、「人から好かれてたらそう感じるのかな」って。

 

 

3日前に出てきた、わたしの心の根源の望み、「心があったかい状態でいたい」っていう、そのイメージは、はっきりと、あの夢のものです。

 

昨日の夜、あの夢の感覚を、もう一回感じてみました。

 

そしたら、あったかくなった。

 

「あれ?人から好かれるとかじゃなくて、感じようと望めば感じられるんだ。」

 

 

それで、「わたし、安心したいんだな」って、ほんとに認めることができて、そしたら、なんか絵本とか読んでいても、以前ならスルーしていたことをじんわりと感じることが増えました。

 

 

その気づきから2日経った昨日、

「この望みを、認めることができなくて、必死に隠して大きく見せて暴れ散らして守ってきた自分って、ほんとに弱っちくて小さいんだなあ」

ってつくづく思った。

でも、不思議と、そこでいつもなら出てくる抵抗がなくて。

いつもなら、自動的に「小さい自分、あり得ん!ブーッ」って、NGワードを消す音みたいのが鳴ってかき消すか、自分責めになるか、「小さいのはイヤ、って思わねばならない →じゃあどうするか?」って思考になっていたんだな。

 

 

これからの人生、どうなるんでしょうねえ?

(他人事。(笑))

夕暮れに思う

こんばんは。

カオリです。


昼間コーヒーを飲みすぎて眠くならないおかげで(笑)久しぶりに夜の更新です。


最近、日がどんどん長くなっているのと暑くもなく寒くもなく、まだ蚊もいない気持ちいい季節なおかげで、夕暮れ時に子どもたちと外で遊ぶことが多くなりました。


そんなとき、夕暮れの日差し、夕焼けの光が差す中で子どもたちの姿を見ていると、

「ああ、今わたし、完全に満たされてるな。今、お金やモノがあるとかないとか、どんな服着てるとか、自分の家と周りの家くらべてどうとか、いろんな状況がどうかとか、なーんにも、まったく関係なく幸せだな。足りないものってない、っていうか、足りないとか足りないかもとかいう思いが何にも関係ないな。」

って心の底から感じます。


先々週元だんなが来てる日にも夕暮れ時まで近くの公園と空き地で遊んでいて、夕焼けをバックに遊ぶ子どもたちの姿を元だんなと並んで見ていてすごく幸せで、「元だんなと一緒に見てるからこんなに幸せなのかな?」とそのとき思ったんだけど、今日子どもたちと3人でいて、今日もまた、完全に幸せだった。



7年くらい前になるのかな?子どもがまだいないとき、2ヶ月くらいハワイに滞在してたことがあるのですが、そのなかで一番印象に残っていて、好きだったのが、サンセットの時間帯のビーチ。

ビーチでサンセットを見るのじゃなく、サンセットの時間帯にビーチにいる人たちを眺めるのが。

夕暮れの光のなか戯れる人たちのシルエットは、誰もが、年齢とか国政、太ってる痩せてる、お金あるなし、なーーーんにも関係なく、とっても幸せに見えたから。

見てる自分もすごく幸せであったかい気持ちになる。


実際にそうだってこと、昼間の明るい光の中では人との違いにフォーカスしてしまったとしても、そうじゃない側面(絶対的に幸せな側面)が必ずあるってことなのかなと今日思った。


ハワイにいたときは、それは、シルエットだから違いが見えないからかなと思っていたけど、ここのところの夕暮れ時の子どもたちを見ての完全に満たされる自分を感じてみると、それだけじゃないんじゃないかなと。


あ、こういう感じのこと書き始めると、なんかかっこつけたこと書きたくなっちゃう自分がいるな(^_^;)


で、ここから思ったことは、年齢のことが40代になって急に気になりだしていたのは、自分の心身の様子から、人生折り返し地点なんだなって感じてなんだけれど、夕暮れの光のなかで、つまり1日の後半の光のなかで、こんなに完全に幸せを感じて何もかもが違いを際立たせるんじゃなく穏やかに見えるんなら、人生の後半を、そういう風に見える側面で生きてくことって、案外しやすい、味わいやすいのかもしれない。ということ。

真昼間みたいに、盛り上がってるぜ!サイコー!イエイ!みたいじゃないからこそ。

諦めとか見ないようにするとかポジティブシンキングとかじゃなく。


夕暮れ時っていっても、その時間帯に家の中にいたら上で書いた感じに全然ならないのと同じで、年齢についても、昼間に戻りたい!って焦って無理やり懐中電灯だの蛍光灯だのつけたら、台なしで。


迷いが全然ないかっていうとそうじゃないけど、夕暮れ時の完璧な幸せ何度か感じてるうちに、なんかそんな風に感じてきた今日この頃です。


おやすみなさい。


久しぶりの更新になってしまいました(^_^;)

こんにちは。

カオリです。


久しぶりの更新になってしまいました(^_^;)


実は、このブログを書き始めた頃はわたし、ノートに気持ちを書くということをしていなくて、コースも終わりに近づいた頃に真穂さんの気持ちの書き出し方についての音声を聞いて「そうだったのかっ」とノートにまず書くようになりまして。


ブログほぼ毎日書いていたときは、日々の中でなんとか合間見つけて更新してしてましたが、ノートにまず書くようになると、そしてさきこさんのnotebookセミナー受けてからより一層、小さなことでもノートに書くようにしていると、その上でブログ、というところまではなかなか行けずにおります。。。



で、日々、気持ちを書いていると、そうそう調子のいい日ばかりではありません。


調子よくなくても、以前みたいに人や環境のせいにしたりできず、自分責めに逃げることもできないですしね(^_^;)


あー、いつもわたしはこうやって、ここで人のせいにして、そんで、仕方ない、ってことにしてたんだな。

それって、ほんとに自分にとって都合のいいことだったんだなー、ってつくづく思う。


いまも、ここのとこ寝不足が続いてるせいか、せっかくの休みなんだけど心身どんよりなんですが、そうやって心を去来する言い訳たちを、野原に寝転んで雲を眺めるように見てます。

そうやってると、「あー寝不足でできないってのも、都合のいいことでもあるね」とか気づいたり笑


で、なんだかぐたーっとしてるんですが、ぐたーっとしてるとなんだか「はー、わたし変わってない。まだこんなこと繰り返してるよ。。。」ってことにばっかり目が行ってただけど、それでも、この半年(そうか、真穂さんの初セッションから半年経ったんだな)で、ぜんっぜん変わったなと思うことも同時に浮かんで来ました。



●そもそも、ここで、変わってないことを人のせいにしてない


自分の中の相変わらずなこと(勝手に優越感とか劣等感とか人のせいとか)日々山ほど目にするけど、それを自分が選択してるってことはだいぶ自覚できるようにはなりました。



●子どもが「幸せだね〜」って言うようになった


子どもたちが時々、「幸せだね〜」って言うことがあって、それ最初に聞いた時、3か月くらい前かな?記事にしそびれたけど、すごくドキッとしました。

絵本たくさん読んでるから、うちの子たちボキャブラリーは豊富なほうで、それまでも「幸せ」って言葉は知ってたと思います。

昔話の最後ってよく、「そうして幸せに暮らしましたとさ」で終わってるし。


でも今まで子どもたちの口から、自分の気持ちとして出てきたことがなかったのは、わたしの中に、「幸せ」って単語がなかったんだと思う。

真穂さんのコース受講前は、「わたしって幸せになりたいって思ってるのかな?」「そもそも誰もが幸せになりたい、って、ほんとなの?」って思ってたし。

だから、「幸せ〜」とか、心から言ったことなかったんじゃないかな、わたし。


いまは、「幸せになりたい」ってことは迷いない。

何が幸せなのか?は、まだはっきりしてないけど。



●元だんなとの関係


これはものすごく変わりました。

ほんと、「してやってる」「してくれて当たり前」がなくなったから、まったくもって心穏やかで感謝ばかりです。


離婚後、腹が立つことがあっても、「だから離婚したんだからしょうがない。ここで腹立てるのやめよう」って思うようにして、それで結婚してる時よりは表面上火花が散ることはなくなってたけど、心の距離は離れる一方で、来てくれた日に子どもと4人でいる時は楽しくいられるけど、なんだか、知らないところが増えてく人とこうやって一緒にいるのって気持ち悪いことなのかなと思ったり、元だんなのふとした言動が心の奥のたまった気持ちとトラウマに触れて大泣きしたり激怒したりしてしまうことが数ヶ月に一回くらい続いてました。


それが全然なくなった。


この前、なんでかわからないけど、急に以前の、結婚してるけどまだ子どもがいない頃のこと思い出して。

そしたら、その中の自分が、ひどすぎる。

勝手に負けてることが基本多かったんだけど、自分が調子に乗れるネタがある時期には、ここぞと勝手に勝ってマウンティング。

あと放置したりバカにしてたり。

ほんとひどい、イヤな女すぎで、ガーーーーーン。


で、でもそれって、その時だけじゃない、わたしって、いつの頃からかずっとそうだった。


そんなんなのに、それでも、わたしと長くつきあって結婚もして一緒にいてくれたなんて!

なんていう器の大きさ。


離婚に至るまで、たくさん話をしたけど、残念ながらわたしは、いくら問い詰められても、自分を見るってことがあまりにわからなすぎて、自力では無理、激怒しただんなに脅されたらますます怖くて被害者になっていってしまいました。


もしあの頃、真穂さんやさきこさんが教えてくださったようなことを知っていたら、今とは違う結果(離婚せずにいられた)のかな、って考えてもみたけど、どうかなあ。

うーん、たぶん無理だろうな。

わたしは、ここまで来てやっと、つまり、離婚前後やその後の辛さで、もうこのまま行くのは限界!ってなって、やっと、わたしにとって本質的だからこそ聞き入れるのきつい、受け止めがたい言葉を聞く気になれたわけで。

(それで真穂さんに助けを求めて、それですら、受講後数日で中途終了言い渡されるほどの重症にならないと、聞く気の片鱗もなかったわけで。)

無理だったろうな。


結婚したままでは無理だったけど、離婚して、毎日一緒にいる、とか、レスの問題を切り離してハードルを下げて、この関係性から学ぶという状況を神さまが用意してくれたのかも。


今日、ふと思ったのだけど、わたし、自分が何が好きなのかわからないことが多かったけど、その中で、「この大学に行く!」ってことと「この人と結婚する!」てことの2つは、迷いの余地がまったくなくて、決まってるとしか思えない感じだったんですよね。


親に無理言って浪人してその大学に入って元だんなと会ったわけだし、やっぱり、離婚はしたけど、元だんなは、この人との関係性をよきものにし続けることが大事な人なんだと思う。

たぶんそれは、お互い別なパートナーいるいない関係なく。

「子はかすがい」って、ふーんって思ってたけど、今の私たちにとってはまさにそうだな。

子どもがいるから今もつながってて、こう思うんだもんな。



長くなりました。



以前、ブログのサブタイトルの中に「40代でも変われる!」って入れてたんですが、数ヶ月前しっくりこないからひっそりと外したんですよね。


40代ではやっぱり変われないと思ったとかでは全然ないです。


こうして自分の気持ち見ていると、いかにずーっと自分がこれを繰り返してきたのかがわかって、で、さっきも書いたけど、じゃあ20代とか30代で気づけば変わりやすかったのかというとそうでは全然なくて、どこで、本気で変わろうと思うかでしかないと思う。

若いと、可能性が無限に広がっているという幻を見やすくて、年齢が行ってくると、可能性がないという幻を見やすい。

で、どっちにしても、それを自分が都合のいいように利用してるというだけのことだなと思います。


わたしは本気で変わろうと思ってるのか?自体疑問に思ったり、何を本当に望んでるのか?まだまだわからなくて見ていってる途中ですが、それでも以前よりは、自分の人生ってものに、近づけている気はしています。

真穂さんの音声を聞いて

こんばんは。

カオリです。


今日、真穂さんの音声を聞きました。


最近、いろんなことを、プッシュされてやるみたいなのをなるべくやめてるから、真穂さんのも含め、購読しているブログの更新通知をメールで受け取るのもやめていて、この3日分くらいのブログさっき読みました。


なので、それと全然違う関係なくなんですが、今朝、あ、そうそう、また夢を見て、それが恋してる夢で、「あーいいなあ。」って思ってたんですよね。

でも、じゃあどうしたらいいのかなあ。

絶対結婚したい!っていうのともちがうから婚活サイトとかも違うしなあ。

でもいまの生活の中で出会いないし。

出会い系サイト?!

いや、ますます違う違う!


とか、思ってたんですよ。

ちょうど。


先週末子どもたちと3人で2泊フェリー旅していて、とっても楽しかったし母子3人だからこその楽しさってのもほんとにあるんだけど、「パートナーがいたらな」って思う場面もあり。

あ、いま思ったけど、離婚したての頃は、1人でもなんでもしてあげられると証明したくて赤ちゃん連れて沖縄とかまで行ったりもしてて、そのときはそんなこと思わなかったな。



で、そんなタイミングだったから、ベストタイミングと言えばそうなんだけど、今日夕方真穂さんの音声のメール開いて、テーマが男女の真理ってなってるの見て、めっちゃ気が重くなったんですよ、実は。

もう聞くのやめようかなと思うくらい。


しかも、この数日のブログもまとめて読んだから、お茶会のこともあわせて読んで、年齢40代前半までってなってたから、一応わたし41だから入ってはいるけど、「ああ、やっぱりもうわたしはそういうこともタイムリミット近づいてるんだな。やっぱり望んでも無理ってことなんかな」って思って、音声聞くのますます腰重くなりました。

「そりゃー真穂さんは結婚式控えてノリノリだろうさ!」とか^^;


でも、やっぱり聞かないでいるのはますますモヤモヤするから聞こう!と思って、子どもたちもさっくり寝てくれたし、聞きました。


結果。

聞いてよかった〜。


変に身構えることなかったし、朝思ったことについても、少し進むヒントをまたいただけました。


まず、思ったこととして、


引き続き、元だんなとの関係から学ぶことも、恋愛ではないけど、パートナーシップなんだな、大事にしよう、ということ。


昨日も元だんなが来てたんですが、その時びっくりしたこととして、元だんなが前日仕事でイベントがあってめちゃ疲れてたのに子どもと泥んこで全力で遊んでくれてたんです。

で、そのあと疲れて寝てて、なのでわたし後片付けしたんですよね。

「わー、疲れてるのにこんなにダイナミックに遊んでくれたんだー。ありがたい。」

って、「片付けろよ!」とか全然なく。


で、そのあと元だんなが起きて、わたしが片付けたのに気づいて「わ、片付けてくれたんだ。ごめん!ありがとー!」とこれまた100%そう思ってる感じで言っていて。


それ聞いたとき、「わ!わたしら、まじで純粋に感謝し合ってる!」と驚いた笑

してやってる感全然なしってのが新しかった、ということは、前は違ったんだなあ。


ともあれ、離婚してるのに、その後その相手とこうやって学んだりよりよい関係になれているというのはうれしかった。

そして、真穂さんの音声聞いて、それをあらためて肯定できた気がします。


あと、その元だんなとのことのほかに、恋してみたいなーっていう気持ちはまだあるけど、やっぱり、めっちゃ相手を探すっていうことをするというのも、いまの自分の「恋してみたい」という気持ち?気分?と少し違う気がするから、そこについては、それを願うことを自分にちゃんと許すということだけは、まずしようと思いました。

びびってるのもあるのかなー。

ちょっとわからないとこもあるから、引き続き見てみます。


新月の日に見た夢から

こんにちは。

カオリです。

 

昨夜は新月だったので、子どもが寝付いたら新月の願いを書き出そうと思っていたのですが、そのままぐっすり眠ってしまいました。

 

そして、朝方見た夢。

 

なにか、教室的なところで、数人で課題に取り組んでいるところ。

掛け軸みたいなものに筆で字を書くような課題のよう。

そのときわたしは、字だけじゃなくて絵の具かなにかを使って波を描いたりしてて、それがなんかもうすごい躍動感で、もう夢中でやってる。

アドレナリン出まくってる。

 

「うおー、サイコー!!」

って書き終わってふと周り見ると、掛け軸を横向きにしてちょっと書き方工夫したりしてる人もいるけど、冴えてるのなくて「ふーん」って思った。

 

・・・というところで、子どもが起き出して、わたしも目覚め、

「あー、あの楽しさもっと味わいたかったのに~」

って思いながら余韻を楽しんでおりました。

 

 

で、思ったんだけど、この夢って、めっちゃデジャヴなんですよ。

 

いままでの人生で、めっちゃ何回もある。

 

小学校の工作とかポスターとかの課題のときからなんだけど、何かやるときに、「こうやろう!」っての思いついてめっちゃ夢中でやってて、「できたー!」って周り見ると、ほかの子の作品はなんかつまんないというかダサく、もっさく見える。

そこで、わたしって、オリジナリティがあって、なんか切り口が人と違うんだなって気づく。

 

で、前回の記事ともつながるんだけど、ほんとは、もう、その取り組んでる最中の、その過程が、もうアドレナリン出まくりで無我夢中でエクスタシーなんだけど、終わった後にふと周り見て比べるとこからちょっとおかしくなる。

 

特に大人になると、仕事でそのオリジナリティを評価されたり、子育てしていてもそれがほかのお母さんたちを巻き込んでの企画になったり、本を出したりすることにつながっていくと、なんか、「自分の独自の切り口、オリジナリティ、『企画力』(←今まで疑ってもいなかったけど、なんともあやしい言葉だ。。。)を活かしたい」って思うようになる。

それを売りにしたい、それがわたしの強み、それで一旗あげたい、みんなに認められたい、成功したい!みたいな。。。

 

現状に不満があればあるほど、その思いが強くなる。

 

でも、今日の夢で思ったけど、ほんとは、そのことに夢中で取り組んでるその瞬間自体がエクスタシーなわけで。

 

それを味わったのに、それを「活かしたい」っていう、そのがめつさというか貧乏ったらしさ自体がむしろ、それ自体を楽しむこと、それを味わい尽くすことを殺していたんだ。

 

わたし、自分は中途半端だなって思ってたけど、それ味わい尽くして完結!ってしてないから、「活かして次につなげてない」みたいに思ってるから、中途半端って思ってたんだな。

途中から「活かそう」に変わっちゃうから。

 

それって、子どもが夢中で楽しんでること親が見て、才能ありそう!って思って「これで一儲けしてやろう」って考えるようなもんだな。

母親が自分の自己実現のためにすげーステージママになってて、子どもはもう苦しい、みたいな。

 

そもそも、「活かそう」って、何様?!

何を誰が操作してるの?

自分の何かを自分が「活かす」「生かす」なんて、なんか、なんかしょぼくしかなりえんだろ!

「生きる」「生きてる」だけでいいだろ!

 

バカだなー。

 

もうやーめた。

 

わたしの望みは、今までの新月には、10個以内でいろいろ書いていたけど、究極的には、あの、夢で見たような(そして今までの人生でも何度も感じている)、夢中でやりたいようにやっている瞬間を感じ続ける、たくさん感じて味わい尽くすことだけなんだ。

お金がどうとかどういう家に住んでて誰と一緒にいて、とかも、どうでもよくはないけど、そんなの関係ないくらい、もう裸でボサボサだってぼろぼろの家だってなんにも見えないくらい集中してアドレナリン出まくりで楽しんでエクスタシー!なときをいっぱい感じるってことだけなんだ。

それも、今後変わってくのかもしれないけど、いまわたしが心底したいことって、たぶんそれしかない。

 

それで、いままでは、そうなれる(夢中になれる)「何か」「好きなこと」を、まず見つけないといけないと思ったり、それを見つけられない自分、見つけたと思っても中途半端になっちゃう自分に劣等感感じたりしていたけど、それも違った。

あの夢でだって、小学校の工作とかだって、大人になってからの仕事や子育てだって、取り組む前にそれが大好きだったり、したいと思ってしたことじゃなかった。

つまり、「何をするか」は関係なくて、それを「やりたいようにやる」っていうことだけが大事で、そうやってたらエクスタシーだったってだけだった。

たまたまそうすると結果出たものが、人とちょっと違ったり目立ったりしたかもしれないけど、誰かと比較する以前に、「もうサイコー!」な瞬間感じれてたんだった。

 

なので、つまり、何を用意する必要も、何を見つける必要もなかった。

やりたくないこと(と取り組む前に思っていたこと)だったとしても、「やりたいようにやる」ってだけで、エクスタシーになりうるってことだった。

「やりたいようにやる」「自由にやる」「やり方を規定しない」ってことを自分に許すってことだけだった。

必要なのは、その勇気を持つ、「なんかあってもケツは拭いてやる。やりたいようにやれ!」ってGOを自分に出すだけだった。

 

GO出します。

それでわたしは、ほめられるとずれてくのか!

こんばんは。

カオリです。


今日、謎が解けました。


わたし、今までの人生どうも、調子に乗りすぎると失敗する、痛い目にあう、って思ってたんです。


それが、もうちょっと紐解けた。


昨日、真穂さんとメールなどでやりとりさせてもらう場面があって、その後の自分の気持ち見て気づいた。


調子に乗ること自体が悪いんじゃなく、調子に乗り方、「ほめられる」ことで変に調子に乗ることでずれてくんだ。


そもそも、人からほめられるには、その「もと」となった自分の言動などがあるわけで。


で、その「もと」(昨日のわたしの例で言えば、自分の気づき)そのもとが自分にとって大きな喜びで、幸せなわけです。


そして、それを人からほめてもらうと、さらにうれしくなる。


が!

そのうれしさ、の中身が問題だったんだ。

わたしの場合。


人にほめられると、その「もと」自体の喜びが、人にOK出してもらえた、承認してもらえた喜びに置き換わってしまう。

「もと」の喜びが、人からの承認の喜びで覆われる、もっと言えば濁ってしまう。


これ、イメージとして、買い物をしてそれを得た時点で喜びなはずなのに、ポイントカード使うと「得した♪」って喜びで、受け取ったこと自体の喜びが濁るのと似てる。


そうして、わたしは、ほめられた「もと」を持ったままならそのまままっすぐ進めるのに、人からの承認の喜びでねじ曲がっちゃって、それでずれてくんだ。


そっか。。。

そこまで、人からの承認を、喉から手が出るほど欲しかったんだね。

渇望してたんだ、承認してもらうことを自分に望めないから。。。

長年、こんなにも自分で自分を認めて来なくて、ごめんね。


ほめること、ほめられることが悪いわけない。

もちろん。


人からほめてもらえたら、その「もと」を得たこと自体の喜びがさらに増すような在り方をしたい。


そのためには、もっともっと気持ちを見て、自分の気持ちネグレクトしないで認める!

とにかくノートに書く!


何を得るとか得ないとか以前に、とにかくそれだけはやると腹をくくります。