自分を大切にして、生きてみる

いまから、ここから、やってみる。日々の記録。

新月の日に見た夢から

こんにちは。

カオリです。

 

昨夜は新月だったので、子どもが寝付いたら新月の願いを書き出そうと思っていたのですが、そのままぐっすり眠ってしまいました。

 

そして、朝方見た夢。

 

なにか、教室的なところで、数人で課題に取り組んでいるところ。

掛け軸みたいなものに筆で字を書くような課題のよう。

そのときわたしは、字だけじゃなくて絵の具かなにかを使って波を描いたりしてて、それがなんかもうすごい躍動感で、もう夢中でやってる。

アドレナリン出まくってる。

 

「うおー、サイコー!!」

って書き終わってふと周り見ると、掛け軸を横向きにしてちょっと書き方工夫したりしてる人もいるけど、冴えてるのなくて「ふーん」って思った。

 

・・・というところで、子どもが起き出して、わたしも目覚め、

「あー、あの楽しさもっと味わいたかったのに~」

って思いながら余韻を楽しんでおりました。

 

 

で、思ったんだけど、この夢って、めっちゃデジャヴなんですよ。

 

いままでの人生で、めっちゃ何回もある。

 

小学校の工作とかポスターとかの課題のときからなんだけど、何かやるときに、「こうやろう!」っての思いついてめっちゃ夢中でやってて、「できたー!」って周り見ると、ほかの子の作品はなんかつまんないというかダサく、もっさく見える。

そこで、わたしって、オリジナリティがあって、なんか切り口が人と違うんだなって気づく。

 

で、前回の記事ともつながるんだけど、ほんとは、もう、その取り組んでる最中の、その過程が、もうアドレナリン出まくりで無我夢中でエクスタシーなんだけど、終わった後にふと周り見て比べるとこからちょっとおかしくなる。

 

特に大人になると、仕事でそのオリジナリティを評価されたり、子育てしていてもそれがほかのお母さんたちを巻き込んでの企画になったり、本を出したりすることにつながっていくと、なんか、「自分の独自の切り口、オリジナリティ、『企画力』(←今まで疑ってもいなかったけど、なんともあやしい言葉だ。。。)を活かしたい」って思うようになる。

それを売りにしたい、それがわたしの強み、それで一旗あげたい、みんなに認められたい、成功したい!みたいな。。。

 

現状に不満があればあるほど、その思いが強くなる。

 

でも、今日の夢で思ったけど、ほんとは、そのことに夢中で取り組んでるその瞬間自体がエクスタシーなわけで。

 

それを味わったのに、それを「活かしたい」っていう、そのがめつさというか貧乏ったらしさ自体がむしろ、それ自体を楽しむこと、それを味わい尽くすことを殺していたんだ。

 

わたし、自分は中途半端だなって思ってたけど、それ味わい尽くして完結!ってしてないから、「活かして次につなげてない」みたいに思ってるから、中途半端って思ってたんだな。

途中から「活かそう」に変わっちゃうから。

 

それって、子どもが夢中で楽しんでること親が見て、才能ありそう!って思って「これで一儲けしてやろう」って考えるようなもんだな。

母親が自分の自己実現のためにすげーステージママになってて、子どもはもう苦しい、みたいな。

 

そもそも、「活かそう」って、何様?!

何を誰が操作してるの?

自分の何かを自分が「活かす」「生かす」なんて、なんか、なんかしょぼくしかなりえんだろ!

「生きる」「生きてる」だけでいいだろ!

 

バカだなー。

 

もうやーめた。

 

わたしの望みは、今までの新月には、10個以内でいろいろ書いていたけど、究極的には、あの、夢で見たような(そして今までの人生でも何度も感じている)、夢中でやりたいようにやっている瞬間を感じ続ける、たくさん感じて味わい尽くすことだけなんだ。

お金がどうとかどういう家に住んでて誰と一緒にいて、とかも、どうでもよくはないけど、そんなの関係ないくらい、もう裸でボサボサだってぼろぼろの家だってなんにも見えないくらい集中してアドレナリン出まくりで楽しんでエクスタシー!なときをいっぱい感じるってことだけなんだ。

それも、今後変わってくのかもしれないけど、いまわたしが心底したいことって、たぶんそれしかない。

 

それで、いままでは、そうなれる(夢中になれる)「何か」「好きなこと」を、まず見つけないといけないと思ったり、それを見つけられない自分、見つけたと思っても中途半端になっちゃう自分に劣等感感じたりしていたけど、それも違った。

あの夢でだって、小学校の工作とかだって、大人になってからの仕事や子育てだって、取り組む前にそれが大好きだったり、したいと思ってしたことじゃなかった。

つまり、「何をするか」は関係なくて、それを「やりたいようにやる」っていうことだけが大事で、そうやってたらエクスタシーだったってだけだった。

たまたまそうすると結果出たものが、人とちょっと違ったり目立ったりしたかもしれないけど、誰かと比較する以前に、「もうサイコー!」な瞬間感じれてたんだった。

 

なので、つまり、何を用意する必要も、何を見つける必要もなかった。

やりたくないこと(と取り組む前に思っていたこと)だったとしても、「やりたいようにやる」ってだけで、エクスタシーになりうるってことだった。

「やりたいようにやる」「自由にやる」「やり方を規定しない」ってことを自分に許すってことだけだった。

必要なのは、その勇気を持つ、「なんかあってもケツは拭いてやる。やりたいようにやれ!」ってGOを自分に出すだけだった。

 

GO出します。